私のポケットはいつもいっぱい

何故だかいつもいっぱいいっぱいになってしまう、そんな主婦の日記帳です

パスワードがわからない問題、ふたたび

 以前にもこちらに書いたと思うが、やっぱりIDとパスワードが分からなくなり、色々なサービスにログイン出来なくなる。前々から同じような事があったが、私側の対処方法には変化が生じていた。

 

 すなわち「思い出そうと努力する事をやめる」という方向性になった。

 

 前までの自分は、何故だか分からないが「パスワードを忘れたなんて恥ずかしい」と思っていた。そこで、何度もトライ&エラーして、最後には認証ブロックがかかってしまい、結局再設定するという非常に面倒くさいことをしていたのだ。

 

 全く本末転倒である。本末転倒であったなあ•••と、懐かしく思う。

 

 今は、パスワード忘れた→すぐにパスワードを忘れた方はこちら→パスワード再設定という手順を踏んでいるので、最終的に目的までのプロセスが短い。この方が断然良い。

 

 つまり「分からないのが恥ずかしい」では無く「分からないことを認めよう」ということなんだが。

 

 これからどんどん私の脳は老化していき、忘れる事が増えてゆくだろう。「何でこんなことを覚えられなくなってしまったのかなあ〜」と思う場面も増えるだろう。

 

 「分からないことを認めて、現実的に対処する」ことが大切だと、その潔い気持ちを持ち続けたい。

恐竜は絶滅していなかった?

 4歳の長男は、興味があることに対しての記憶が頭抜けている。少し前まではトミカや緊急車両の名前を覚えることに喜びを感じていて、救急車、消救車、ハイパーレスキュー車など、場面に応じた車両の名前を出しては消防隊員になりきっていた。最近は恐竜にどっぷりはまり、図鑑やyoutubeで様々な恐竜の名前や特徴を仕入れて、私たちに披露してくれる。

 私も彼に付き合って恐竜を目にすることが増えた。すると、あれ?○○(恐竜の名前)ってこんなんだったっけ?と感じることが多いのだ。図鑑やDVDで見る恐竜の姿は、自分が幼い頃に覚えたものと明らかに異なっている。

 大きくは違わないが、詳細に違和感がある。「間違い探し」クイズを解いている時のように、うーん、何かが違う、何だろう・・・という感覚。

 例えば、ティラノサウルスは相変わらず最強の肉食恐竜だが、しっぽを垂らしてノッシノッシ歩くのではなく、しっぽと頭を水平にしてチーターのように速く動くのである。更にはフサフサの羽毛が生えていたらしい。ティラノサウルスの仲間であるディロンの化石に羽毛の跡が残っていたことから、そう推測されるという。私がティラノサウルスと聞いて思い浮かぶのは、安達裕実主演の映画「REX(レックス)」やジュラシックパーク(初代)に出てくる、ツルツルの体をした「でっかい爬虫類」のような姿なのだが。

 また、トリケラトプスのフリル(えりかざり:額から首回りの部分)にはどこかの部族の儀式のような目玉の紋様があったり、ステゴサウルスの背中の板には色々な形や色があったりする。記憶の中の彼らは茶色や灰色の地味な肌色で、そんなにカラフルな姿をしていなかった。

 図鑑には「○○(代表的な恐竜の名前)の仲間」と題して、数種類ずつの恐竜が見開きで紹介されている。同じ科に属する恐竜が、住む地域によって体の大きさやトゲの形、しっぽの形など特徴が異なり、バリエーションに富んでいることが分かる。人種が違うと体格や目の色、髪の色などが異なるように。

 こうして、自分が覚えていた恐竜の知識は、そんなことまで分かったのかという新鮮な驚きとともに、より詳細に、鮮やかに更新されていく。

 私が言語聴覚士の実習生だった時、実習指導の先生は週末になるたびに「論文を4本読んでレポートを書いてきて」と言われた。日々のレポートにもヒイヒイ言っていた私は酷な課題だと思っていたが、先生はレポートを読むのをとても楽しみにされていた。「実習生さんの書いてくれるレポートを読むと、今の教科書ってこういうふうなんだなと、とても勉強になるの。臨床経験はどんどん増えていくんだけど、自分が勉強した時で知識が止まっているからね」と笑顔で仰っていた。あれは、こういうことではなかったのか。

 年齢を重ねると、勉強しようと思って調べ物をしてもなかなか頭に入ってこない。子供や後輩を育てる中で、一緒に勉強し直すのは確かに楽しい。

 恐竜に関して最も驚いたのは、「恐竜は絶滅していなかった」(youtube動画「しまじろうのわお」より)説。え?絶滅していなかったの?と思わず問うた。詳しくは「恐竜は絶滅していなかった。恐竜は鳥に進化していた」なので、よくよく考えると「始祖鳥のことかな」と思い至る。しかし、かつて「始祖鳥」と呼ばれていた化石は鳥の祖先ではなく、鳥に近い姿を持つ小型の恐竜(アーケオプテリクスなど)である、というふうに、今は考え直されているらしい。

 隕石の衝突か火山の噴火か原因は不明であるが、地球の気候が大きく変化し、大型の恐竜は姿を消し、小型の恐竜(→鳥に進化した)とほ乳類が生き残ったという。

 前述のように、ティラノサウルスなど大型の恐竜にも羽毛が生えており、恐竜と鳥類の間には、骨格、タンパク質の構成上の類似性があったそうだ。

 世界にはおよそ9000~1万種類の鳥がいるという。かつては人間よりもずっと大きかった恐竜は、鳥に進化し、現在も進化し続けているのだろう。東京ディズニーランドの「魅惑のチキルーム」のような、色とりどりの鳥たちが脳裏をよぎる。

「じゃあ、僕アンキロサウルスね。ママは雌のティラノサウルス」と唐突に長男が恐竜戦いごっこを始め、私の思考は遮られる。すると、次男が「ガアー」と恐竜の鳴き声を真似しながら戦いに加わる。

 思考や知識をアップデートさせてくれる。そしてめちゃくちゃに破壊したりもする存在。可愛い恐竜たちは鳴き声をあげ、おもちゃを散らかし、リビングのフロアマットの上を闊歩し、ソファから飛び降り、私に悲鳴をあげさせる。



参考:小学館の図鑑NEO 新版 恐竜 (2002初版 2014新版発行)
  テレビ番組 しまじろうのわお!「恐竜」(2017 6月17日放送)

マイマイの謎

 でんでんむしむし かたつむり おまえのあたまは どこにある つのだせ やりだせ あたまだせ

 我が家のテレビは最近、童謡「かたつむり」をヘビーローテーション気味だ。子供たちの求めに応じ「OK,Google」とグーグルホームにお願いし、テレビでyoutubeの動画を再生する毎日。

 4歳の長男は自分でグーグルホームに命じる。1歳半の次男は「おうた(お歌)」や「ぐるぐる(Google)」と言って、私たちに促す。「あかー(どんな色が好き)」「グワッグワ(かえるの合唱)」とカタコトで歌のタイトルを伝えてくる。

 その際、不思議なことに「かたつむり」のことを「マイマイマイマイ」と言う。この近所では誰もかたつむりを「マイマイ」と呼ばないのに、である。

「デデムシ」「マイマイ」「カタツムリ」「ツブリ」「ナメクジ」どれも標準語カタツムリの方言だ。「蝸牛考」の中で柳田国男は、カタツムリの名称を表す方言は京都を中心に同心円上に分布すると論じた。

 それから時代は移り、テレビやラジオ、電話、インターネット、様々なメディアの普及によって人とのコミュニケーションが大きく変化した。蝸牛考が書かれた当時のように文化の中心(=京都)から順に言葉が波及していくというより、多くのメディアを通じ全世界に向けて発信していくことが可能となった。

 日本のどこに住んでいても標準語を耳にする。逆に、遠方に住んでいるなど、これまで対面で会話することが困難であった人同士が文字、音声、映像などを用いて会話をする。近隣でない地域の方言を目にする・耳にすることも増えた。

 ただ方言がなくなったかといえばそうでは無い。例えば県をまたぐ電車に乗ってみると、車内で交わされる会話のイントネーションが移り変わっていくことに気づく。

 私たちの住んでいる地域では「かたつむり」は「カタツムリ」あるいは「デンデンムシ」と呼ばれ、「マイマイ」と呼ばれることはほとんど無いと言っていい。

 いったい次男はどうしてかたつむり=「マイマイ」という言葉を使うようになったのか。

 いくつか仮説を立ててみた。

仮説1:「ワンワン」「ブーブー」のように擬音語・擬態語から派生した幼児語である

 次男は「かたつむり」のことを「マイマイ」と呼ぶが、こども図鑑のロールケーキの写真も、またうずまきのイラストも「マイマイ」と言う。「巻く」「うずまき」という状態を「巻く巻く」→「マイマイ」と表現している可能性がある。

仮説2:まったく偶然の産物

 発音しやすい両唇音mと母音の組み合わせで「maimai」と発声してみたところ、相手に伝わったので、それ以降「マイマイ」と言うようになった。

仮説3:産まれる前にお腹の中で「マイマイ」という言葉をきいていた

 妊娠6ヶ月頃から聴覚は発達しているらしい。ただ、羊水の中なのでハッキリと聞こえているかは不明。

仮説4:前世の記憶がある

 韓国ドラマ「トッケビ」のように前世の記憶を持ったまま生まれ変わることがあれば…という話。

仮説5:保育園の先生や友達など、私たち両親の知らないところで「マイマイ」という言葉を使う人がいる

 長年国語教師をしていた母が一番推している説。「先生たちの影響だろうね~」と。確かに保育園に行き始めてから色々なことを覚えてくる。

 仮説1、2または5が有力であると考えられるが、本当のところは次男しか知り得ない。尋ねてみたところで、首をかしげられるのが目に浮かぶ。仮説3と4は、そういうことがあったら素敵だなという思いがある。

 1歳半の言語機能―少ない語彙、発語器官も未発達な中で「かたつむり」を表現しようとした時、彼の中で「マイマイ」という言葉がピッタリとはまったのだろうか。伝わったのが嬉しくて、何度も何度もそう呼ぶのだろうか。

 今日も我が家のリビングでは「マイマイ、マイマーイ!」と可愛く叫ぶ声が聞こえる。

子供の宿題を見ているとイライラしてしまう

子供と一緒に毎日、公文式(くもんしき)の宿題をするのだが、私の方がすごくイライラしてしまって困った。

もともと、学生時代に家で宿題をしたことがほとんど無い。授業になるとぶっつけ本番で答えていた。そんな私であるから、宿題をすることへの耐性が無く、さらにまた「宿題をやらせなければならない」という状況が自分を苛立たせた。

子供にとっては遊びの方が優先。毎回「くもんをやろう」と声かけが必要。声をかけても遊びのキリがつかないとなかなか始められない。ようやく取りかかっても先に進まず回り道ばかり。問題の指定通りに行わなかったり、わざと逆の順番で読んだり、違うことを付け足して書いたりする。それでいて、こちらが他ごとをしているのは許さない。

いつも途中でイライラしてしまい「ちゃんとやって」「やらないなら私は見ないよ」「ママはもうやめるよ」と私の方が音を上げた。一方、子供は「嫌だ!」「ママとやる!」と言って、意外とやめようとはしないのだ。

ああ、毎日、宿題の時間がつらい。そう思っていた。 

言語聴覚士として脳に障害のある患者様のリハビリを行っていた時、患者様が課題に取り組めなくても、課題をルール通りに行わなくても私がイライラすることはほぼ無かった。

「なぜできないのか」を常に考え、患者様を知ろうとすることが楽しくて仕方が無かった。

課題の設定に問題があるのか、それ以前に体調はどうか、集中できる環境なのか、患者様の好みに合っているのかなどと考え、条件を変えてリハビリに取り組めるようになれば、とても嬉しかった。

ところが親である私は、子供が「なぜできないのか」を考えたくなかったようだ。なぜ考えたくないのか、その理由を考えてみる。

例えば、寝る時間が遅くて睡眠不足なのではないか、食事がしっかりとれていなくて集中できないのではないか、もっとうまくいく時間帯があるのではないか・・・そういったことを検討する時、私は裏返しに「今、できていないのは親である私がうまく調整できていないせいではないか」と責められているように感じるのだ。

それが恐ろしくて、深く考えることをやめ「子供がちゃんとやってくれない」「子供にイライラさせられる」ということにしたかったのではないか。

だが、こうして書いていてあらためて思うが、子供の行動はすべて親に責任があるわけではない。子供にだってその時の気分もあれば体調もある。親の私がなんとかできることの方が少ないのではないだろうか。

私にできることと言えば、イライラしないように自分のご機嫌を取ることくらいだ。

過剰な責任感「やらなければならない」「うまく、やらなければならない」という思いが宿題をつらくさせているのであれば、それは百害あって一利も無い責任感だ。

そこまで生真面目に宿題をやらなくたっていい、気楽にやればいい。そう思うようになってきた頃、公文式の先生との個人面談があった。

「お家ではどうですか?宿題、しんどいですよね?」と問われて私は正直にはい、と答えた。毎回、ちゃんと出来なくて遊んでしまって・・・と。でもちゃんとやらなきゃ、と思うので苦しいですと伝えた。

先生は、まず、そんなにマジメにやらなくてもいいですよと仰った。「未就学児の学習において遊びの要素はとても大切で、公文式のプリントにカラーの絵やクイズのようなしかけがしてあるのもそういう理由があります。必ずしもルール通りに行わなくても、落書きしながらでも、学ぶことへの興味を持って楽しく、遊ぶように取り組むことは良いことなんですよ」と。

ただ、毎日1枚でも2枚でもいいので取り組むことは学習の記憶を定着させる上で重要ですから、決められた枚数が出来なくても少しはやっていただけるのがいいです、と。

ここまでで、私の気持ちはずいぶん軽くなっていた。自分でも気楽に宿題に取り組むようにしていたが、公文の先生からもお墨付きをもらえた。

また、グダグダとしながらもママと宿題をやりたい、と子供が言うことを話すと「お母さんと一緒に何かをするって、子供にとってはとても大切な時間なんですよ。家事の片手間じゃなくて、自分だけに向き合ってくれる時間というのは。今はそれを楽しんでくださいね」と仰った。

なんだか泣きそうになってしまった。「ママがいい!」「ママとやりたい!」と言うのは、本当に言葉通り息子からのラブコールだったのかな、と。

それからも、やはり宿題に耐性の無い私は、時にイライラしながら息子の公文の宿題に取り組んでいる。

ただ、イライラが大きくなりそうな時、そんなにマジメにやらなくてもいいのよと自分に話してみる。

そうして楽しむ心が生まれてくると、ふと目の前にある息子のまんまるのおでこを見て、優しく撫でたいような気持ちになり、そっと撫でてみる。

宿題に集中していた息子は少し驚きながら、しかしすぐに目を細めて、きゃらきゃらと笑い、私を見つめ返してくれる。

韓国ドラマ「トッケビ」に恋をするか

「最近、恋がしたい、と思うことがある」

 ママ友にそう話していたら、韓国ドラマを観るといいよ、すごくドキドキするよ、ラブラブキュンキュンするよ!と勧めてくれた。

 韓国ドラマ・・・というと、昔「冬のソナタ」に親友がハマっていたという記憶があるくらいで、とんと詳しくない。どのドラマがいいか?と訪ねると、「トッケビ」がおすすめとのこと。

 早速Amazonプライムビデオを検索し、視聴してみた。

トッケビ~君がくれた愛しい日々~」 純愛ドラマらしさが漂うサブタイトルである。

 第1話。不思議な露天商のおばあさんと未婚の母になる妊婦さん(主人公ウンタクの母)の会話。生死の境をさまよう時が来たら一心に祈りなさい、とおばあさんは言う。

 場面は変わって、高麗の武将キム・シンが出てくる。王に謀反の罪をきせられ、処刑される血みどろの展開。神から不滅の命という呪いを与えられ、トッケビ(妖精のような不思議な存在)として蘇る。呪いを無に帰すことができるのは、トッケビの「花嫁」だけ。

 あれれ?私は歴史ファンタジーが観たかったんだっけ?と思わず自問するが、とりあえず終わりまで観てみようと思い直した。

 トッケビ手塚治虫の「火の鳥」のように、また山下和美の「不思議な少年」のように、時々不思議な力で人間に関与する。

 ひとつ違うのは、トッケビの家臣が代々トッケビに仕えている点。トッケビは年をとらないが、家臣は生まれては、老いて、死んでいく。大切な人がいなくなるのに自分だけは死ぬことができない。

 時は現代にうつり、トッケビは938歳(外見上は30代)となっていた。

 もう一人の主人公、トッケビの花嫁となるウンタクは、母親が妊娠中にひき逃げに遭い親子ともに命を落とすはずだったが、母親が「この子だけでも助けてください」と一心に祈ったところ、トッケビに命を救われる。彼女は産まれる前で名前が無く死神のリストから「漏れて」いた。

 9歳の時に死神に見つかり処理されそうになるが、冒頭のおばあさんの手助けで逃げ延びる。やがて高校生になった彼女は母親の遺産を狙う叔母の家で生活する。叔母といとこには毎日いじめられ家事をさせられ、学校でも友達がいない。話しかけてくるのは幽霊ばかり。

 そんな毎日を変えてほしい!19歳の誕生日、彼女が強く願ったその時、目の前にトッケビが現れる。

 こうしてトッケビトッケビの花嫁は出会った。

 以上が第1話のあらすじ。正直、重く悲しい内容であまり恋愛的なドキドキは無かった。
 が、第10話まで観終わった今は、必要だったと感じられる。「ファンタジー×ラブコメ」の「ファンタジー」の部分を裏付けるために。

 第2話からは「小生意気な女子高生と、それに振り回される恋愛に不器用なトッケビ」という構図が随所にみられ、ラブコメ色が強くなってぐっと観やすくなる。大前提の「トッケビの呪いを解くことができるのは花嫁だけ。呪いが解けた時トッケビは消えてしまう」という状況は生きているので「悲恋」の切なさも併せ持っている。

 「ラブ」と「キュン」のバランスが良い。おばあさん、死神、バイト先の店長、従者の子孫など主人公たちの周囲のキャラクターも魅力的だ。 

 さて、人は、自分が思春期だったころの音楽、映画、ドラマなどの文化を長く愛するという。カラオケなどに行くと各人が青春を過ごした頃の歌を歌い、新しいヒット曲にはなかなか更新されていかない。

 私が小学生~思春期を過ごした1990年前後、この「ファンタジー×ラブコメ」というジャンルは大変流行っていた。

 海外ドラマの「奥様は魔女」(1964~1972)をレンタル屋で借り家族で観ていた思い出がある。その他スタジオジブリ魔女の宅急便」(1989)や、吸血鬼との恋を描いた漫画「もしかしてヴァンプ」(1991~1998)、魔界のプリンスが教員になる「お願いデーモン」(1993)、小さくなってしまった幼なじみとの切ないラブストーリー「南くんの恋人 武田真治×高橋由美子版」(1994)などなど枚挙にいとまが無い。

 大ヒットした少女漫画「美少女戦士セーラームーン」(1992ー1997)は、女子中学生が正体を隠して正義の味方をしているが、前世の因縁や運命の恋が交錯し、UFOによる連れ去り事件、隕石の衝突、人工衛星、未知の惑星などXファイル的な要素もある。私にとって、当時のドキドキや憧れがふんだんに盛り込まれた大好きな作品だ。

 最近のドラマはもう少し現実的な背景を設定し、個々のキャラクターに特色を持たせているものが多いように感じる。

 韓国ドラマ「トッケビ」を観て、私は「ファンタジー×ラブコメ」が大好きだった、ということを思い出した。恋愛だけでなく、不思議な力や、運命や、歴史の裏に隠されたストーリーにも、ドキドキする。

 ひとつのドラマを観ることで、恋多き乙女になれる。

 しばらくはトッケビの世界に恋することができそう。

子供の風邪がうつると親の方がしんどいことになる

先週、次男が夏風邪をひいた。8月頭から外出自粛していたのだが、咳止めや保湿剤が切れたので小児科を受診。

周りの赤ちゃんたちが「昨日から高い熱が出て…」と受付で言っているのをきいて、これはまずい時に来たかと思っていたら案の定。その日の夜から鼻水ズルズル。

翌日には熱が出て来て夜中には39度まで上がった。

熱が出ると次男は私にべったりになる。片時も離れるのを許してくれない。腕枕をした腕が痺れそうになるのでそっと引き抜こうとする。すると烈火のごとく怒って私の胸ぐらをつかんでくる。小さな手で、ぎゅっと握りしめてくる。

そうしてくっついていたら、今度は私の鼻がズルズル。まずいなぁと思っていたら発熱、38.7度。鼻が詰まって息が出来ず、体の節々が痛い。

次男は一晩熱を出した後はスッキリして、お歌の動画に合わせてダンスをしたりしていた。一方私はなかなか症状がおさまらず、病院を受診するのもコロナの影響で保健所に電話したり受診時間をずらしたりとひと苦労。いつもの調子に戻るのに1~2週間はかかった。

「子供の風邪って、なんで大人(親)にうつると、大人の方がひどくなるんだろうねー」とママ友たちは言う。子供は無理をしないからかな、と私は思う。一方、親は自分の看病と子供の看病と両方しなきゃいけなくなる。

風邪には「休養」が一番の薬となる、外出自粛しておとなしくしていよう。そう言われるが、子育て中の場合は家の中も安息の地では無い。

夫や、可能なら実家や義実家に頼ってできるだけ休息をとること。無理をしないこと。当たり前だけれど、風邪をしんどくしないためにはそれが重要だと思う。

2020/8/15 パスワード再設定してブログ再開

ここ10年程で、何かにつけてログインする際にIDとパスワードを入力することが増えた。

しかも、セキュリティの関係から同じパスワードを使用しないように、あるいは簡単なパスワードだと「安全性 低」とされて設定できなかったりする。

人間の記憶力には限界がある…。私は一体何度「ログイン パスワード 忘れた」とGoogle検索したことだろう。そして「秘密の質問」を選択すると、本当に自分が答えたのだろうか?と思う程に答えがわからない。

「それを設定したのは私ですか?」と答えが返ってこないログイン場面に問いかけることしばしば。

この度、以前はてなブログを書いていたことを思い出し、忘れたパスワードを再設定し、このページを開くに至った。

自分の書いていた記事を閲覧してみると、どうも長男が産まれる前までの内容である。

それがまた「それを書いたのは私ですか?」とスマホ画面に問いかける程だ。まったく覚えていない。

記事を書いた頃から4年が経ち、長男、次男ともにすくすく育っている。一方私は年をとり、次男出産後の心身の不調でワーママから主婦となった。

小学生高学年の時に夢見ていた「オレンジページ主婦」(雑誌オレンジページに紹介されている料理やライフハックを楽しんでいる主婦。私はレタスクラブよりオレンジページ派だった)に近い設定におさまった。だが、育児しつつ料理や趣味を楽しむのは私のキャパを越えていた。実際は毎日大量の野菜を刻んでホットクックに放り込み味噌汁を作るのが精一杯で、おかずは市販のお惣菜といった様相だ。

そんな中、子供が寝た後で何か「書きたい」と思うようになってきた。書き留めておかなければ、また怒濤の日々が過ぎ、一体何を思い何を行っていたのかわからなくなっているのだろう。

それを書いたのは、私です。そう思い出せるように。

備忘録(びぼうろく)代わりに、時折更新していければと思う。